
転生〜古代エジプトから甦った女考古学者〜 --- ジョナサン・コット/著 田中真知/訳 新潮社 20071987年に出版された"The Search for Omm Sety"の邦訳です。
21世紀になる前、エジプトでは大変な有名人だったそうな
Omm Setiさん(イギリス人女性で、本名はドロシー・イーディー)の人生をとり上げたルポですけれども
著者は直接この方に会ったことはないらしい。
(思い立ったすぐ後に亡くなったそうなので)
それは残念でもあり、でもあるイミ、よかったのかもしれないかなぁ
著者が、たくさんリサーチして、彼女を理解しようといろんな角度から、並々ならぬ努力をしたことがよくわかる。
このOmm Setiさん(息子さんの名前もSetiで、エジプトではセティのお母さん、という意味で女性をこう呼ぶんだそうです)
3歳の時に階段で転んで頭をひどくぶつけて
以来、古代エジプト人であった前世を思い出し
思春期になって前世で恋人だったファラオのセティ1世が彼女を訪ねてくるようになり
エジプト人と結婚してエジプトに移住し、息子が生まれるけど
その後離婚し、エジプトの考古学に携わって一生を送る...
という彼女の人生なんですけども
けども!!!
まぁさらっとこうご紹介したけどすごいでしょ
なんとまぁ、3000年越しのラブストーリーなんですねこれは^^
著者の姿勢も、なんというか淡々としてニュートラルで
好感が持てます
おもしろかったからメモしておきたいところ。。。
女性をOmm Setiのように本名で呼ばないのは
(いまもエジプトに存在する)呪術師に呪われないため…
自分と、その母親の名を知られると呪がかかる。
昔(エジプトでは)男性の名前の後に必ず母親の名前を続けるのがならわしだったのだとか。
寝ている間に魂(アストラル体)が「アク」の姿となって出ていくのだそうですが
帰ってこられるように部屋の窓を開けておかないといけないんだって。
彼女はこの姿で夜な夜なSeti T世に会いに行ったり(あるいは会いにこられたり)してたわけね。
ちなみにアストラル体は銀色の臍帯で体とつながっているというけれど
彼女のアクにはそんなひもはなかったんだそうな。
(古代エジプトの目に見えない体の概念については、
バーとカァ、ってのもありましたねぇ)
アビドスにあるSeti T世神殿のすぐ隣にある「オシレイオン」
ここに湧く泉はほんとうになんにでも効くみたいで
(一度行ってみたいです〜)
それを使って人々の役に立っていた様子や
古代エジプトの出産は水中出産。
守護神はカバ。(Omm Setiさんの過去生の記憶による)
呪術師の仕事「呪詛」のひとつとして「サソリの石碑」があった。
書かれていたのはサソリを追い払う呪文。
この石碑がある限り、この村でサソリの被害に遭うことはなかったが
あるとき古代の遺物として発掘されて運ばれて行ってしまい、
まさにその日から、サソリに刺される人が出るようになったこと。
そうだ。
日本でもさぁ、そう古いものじゃないけど、ほら、舞子の何とか閣、6角形だったかの、あったじゃないですか。(ググったら移情閣、っていう名前でした)
あれ、移築されてしまったけど
一説には、龍脈上の押さえ石かなんか(あるいはその上に建ってた)だったとかで
あれがなくなって阪神大震災が起こったんだよね、なんていう人がいたっけね。
まぁその真偽はともかく、
でもそういうもの・・・動かしてはいけないもの・・・って
あるんだろうとおもうのよね。余談でした
本書では、「エピローグ」として、
Omm Setiの体験に対しいろいろな角度からの説明〜いろんな人の説〜を紹介しています。
どっかで聞いたような人の名前がいっぱい出てくる。
これが、この本の視野の広さを見せてる部分。
最後に…
ここで紹介されている、ウィリアム・ジェイムズ(この人の説明をした箇所が見つけられない)の講義(1896、「非日常的な意識状態」)録の中から
とっても印象に残ったところを抜き書きしておきます。
長いんだけど、要約したら意味が変わってしまいそうなので、頑張ってタイプしとく。
「我々は健康と病気の間に、普遍的な区別をもうけている。
しかし、実際は、両者の間に明確な区別はつけられない。
(注釈:ジェイムズにとって、健康とは基本的にバランスの問題である。彼は次のように述べて講義をしめくくっている)(中略)
完全に健康であることを示す純粋に客観的な基準はない。
いかなる異常も、本人にとって有益ならば正常とみなすことができる。
ある面では人を健康にする働きがあるものでも、別の面においては、その人に害を及ぼすことがある。さらにいえば、われわれはみな社会の役に立つための道具だと言える。もし、感覚過敏や強迫観念や精神異常などが、そのほかの気質と結びつくことができるならば、われわれは社会においてよりいっそう役立つ存在になりうる。そうした観点から見れば、異常があるからといって不健康と呼ぶべきではない。むしろ、その逆である。
問題は、ノルダウのような作家が、異常に対する個人的な嫌悪感に客観的な権威を与えようとして、たんなる方便として症状に説明的な名前をつけて使っていることにある。医学用語が、人を裁くための、ただの権威ある物差しになっているのだ……。
たとえ自分が感覚過敏だったり、激しい衝動や強迫観念をもっていたとしても歓迎すべきである。それによって自分たちの経験の地平がいっそう広がり、人類の遺産をよりよいものにする貢献をなしうるのであれば、それは歓迎に値する。
健康という概念を狭めるのでなく、逆に拡大し、どんな弱点も致命的ではないとみるべきである。
要するに、人生を恐れるべきではないのである」余談なんですけれどもね。
Bodytalkの上級セミナーを今月受けていたのですけど
その中でデモセッションのクライアント役になったり、受講生同士お互いに練習し合ったりすることがあったんですね
(そんな中でもすこしずつ体の中のバランスが取れていく。)
一度わたしをみてもらっているときに
「エジプト」が出てきてちょうどこの本を読んでいたときだったので
なんかびっくりした〜
(くわしいことは、メモとってなかったので忘れてしまったわ)