2013年12月29日

「子どもと悪」


子どもと悪〈子どもとファンタジー〉コレクションW --- 河合隼雄/著 河合俊雄/編 岩波現代文庫 2013

この本は出たばかりですけれども文庫化される前の元の本は1997年初版発売だそうです

やっぱり思春期のこころとからだのことを中心に。


自分を思い出すと、中1の頃がすごく
しんどかったんですよね
そのころ、社会の授業で青年期は「疾風怒濤の時代」なぁんて習って
なんか人ごとのように感じながらも
そうかぁこれが疾風怒濤...(さもありなん)と思ったことを覚えています

(でも訳としては「嵐と衝動」ってほうが正確みたい。たしかに、こっちの方が的確な気も。)


本書における「悪」の定義は本書をぜひお読みいただくとして

「すべての悪は、どこかで自立にかかわるところがある」
と話していらっしゃいます

思えば

芋虫毛虫が蝶になる前にさなぎの時期を過ごすのが
人間でいえば思春期ですよね
殻に包まれて
その中で身体は一旦どろどろのゲル状になるのだとか

昨日の夜ちゅん2と二人でお寿司を食べに行ったんです
その前にいろいろ手違いがあったりして彼は大層不機嫌で
むすっとして無言でカウンターに座ったんだけど

出されたお寿司を一口ぱくっと口に入れたら

ニッコリ笑顔
(おいしかったなー)

ふとなんだか涙ぐんでしまった
殻の向こうに素のちゅん2が見えたようでね
まぁこれは親の感傷といえばそれまでですが


この本は本当に読んでよかったと思います
思春期のお子さんをもつ方には超お勧め〜

反抗されても「そうかそうか、親を越えていくのに反抗が必要よね〜」
ってちょっと余裕(客観的)でいられるようになったかも?
(まぁ親の方の覚悟も相当問われるわけでございますが)




さて中身の話を少々。

所謂少年の「非行」のエピソードのあとで
「この子は、お母さんを教育するために、何と頑張ったんだろう」という著者の感慨が語られています

現代はいろいろな意味で大人が不安をもちやすい社会となっているし
親が自分の不安を無意識に子どもに投げかけてしまう
そのことが子どもに与える悪影響を及ぼしていると何度も言及されていました


印象に残ったのは、人間というものの複雑さ
これは、こうだ、とシンプルに割り切れないってこと
(だから矛盾と葛藤のガス抜きのためのユーモアが大切ってか必要なわけよね。先生お得意の^^)
特に子どもと向き合うってことは

「子どもの『悪』についてよく理解することは必要であるが、それは決して甘くなることを意味していない。
理解することと厳しくすることとは両立し難いようだが、理解を深めれば深めるほど、厳しさの必要が認識されてくるので、厳しさも筋金入りになってくるのではなかろうか。
理解に裏付けられていない厳しさは、もろいものである」


これも、単純にそうか、わかった!ってたかをくくったように思うことを意味していないのよね
個別に格闘するってことなんだわ

鋭いむき身の刃のような思春期の子ども達にむかい合うってことは

なんていうか
丁々発止、まるで命のやり取りのような?
現場で(こどもと向かい合って)
感覚を研ぎ澄まして
惰性や手抜きはすぐに見破られてしまうよね
それに

「どのような正しいことでもスローガンになると硬直する。
硬直した思考は単純に二者択一的になる」

「これは機械のすることで、人間のすることではない」


↑こういう知的(?)怠惰もね。



さて。
それから、本書には「補論」ってのが3つついていて
そのうちの「昔話の残虐性」っていうのが大層面白かったのです

昔話は集合意識(ってか集合的無意識?←スミマセンテキトーで…)の物語だから
たましいの領域の抽象性…をもっているって(わたしは自分なりに)思うんですよね
「比喩」っていうのと少し違うっていうか。

そのことを(若干長いですが引用)

「安直な『平和』を念頭に粗雑な絵本をつくった人は、それを読み聞かされている子ども達の魂が、退屈で窒息しそうになっているのをご存じだろうか。
おもしろくもない読みものを『ためになる』からと読み聞かせる母親は、だまして婆汁を飲ませる狸とあまり変わらないことをやっているのではないか。
大人たちは知らず知らずのうちにどれほど残酷なことを子どもたちに対してやっているかを自覚しなくてはならない。
昔話が心の深い層に生じる真実を語っていると考えてみると、
昔話に語られる『残酷』なことは、むしろ日常茶飯事に生じていることが分かる。
娘が他の人々と交際することを厳しく禁じている父親は、娘の『両手を切っている』と言えないだろうか。
こどもを『食いもの』にしている親などたくさんいるし、『ガラスの棺』に閉じ込められている女の子も存在する。それに、子どもたちは成長して行くためには、内面的には『母殺し』や『父殺し』をやり遂げる必要があるとさえ言えないものだろうか」



ここでまた、「語ること」と「語り手」の重要性を指摘されています。

語る、っていうことは、そこに「語る人」と「聞く人」があって
その人間関係が存在するってことが土台になるものだと。


昔話は「長い年月を経てできあがったものだけに、きわめて普遍性の高いものであり、どこかで心の深みと響き合う性質をもっているから」

でもいまどき、お話を語ってもらえるこどもたちや機会はおそらく本当に少ないでしょう。
わたしだってそうだったわ。

本来語られるものである昔話が、書物になってそれを子どもがよむ場合、
「子どもがそれまでに自分の存在を支えるよき人間関係を獲得しているとき、子どもたちは自分で読みながら『語りかける声を聞く』体験をしているものと思われる」

でも

「人間関係の基盤の弱い子が、昔話を読むときは、強い不安に襲われたりして悪影響を受けることも考えられる」


…ただ本を与えればよい、読んでいればよい、というわけではないというのは
ヤッパリここにも。。



「外的真実は書物によっても伝えやすいが、内的真実は人から人へと、あるいは、人の魂から魂へと直接に語りかける方が伝わりやすい」


「書物でも少しむずかしいのに、これが絵本やテレビとなるときわめてむずかしいこととなる」


結局、
「子どもが話を聞いて、自己の内的現実としてのイメージをつくりあげる前に、
外から映像を与えてしまうからである」


これは、シュタイナーも言っている
「幼い子には絵本より(もちろんTVより)まずはお話を語ってあげる」
ということの、的確な説明になっていると思います


「昔話は『物語』られるときにこそ、最大限の効果を発揮し、
語り手が既に述べたような残酷性の意味を明確に知っているときは、いくら残酷な話をしても問題はない」

(この「知る」というのは小手先ではなく「全人的な意味」


そして、
「昔話の絵本をつくるためには、相当な配慮と技術が必要となってくる。
おきまりのイメージを子どもに押し付けるのではなく、子どものもつイメージを、より豊かなものへとひろげてゆくような絵本が望まれるのだ。
はたして、昔話の絵本をつくる人に、それだけの自覚をもつ人がどれだけあるだろうか」

と、安易な制作・出版にも苦言を呈しています(同感です)

語りがやっぱりいいんだけどさ。
(いままさに、ストーリーテリングのために昔話を一つ暗記しているところ)

「それにしても、昔話の中の残酷さを真に意味あることとして、子どもに『語りかける』ことのできる語り手は、現在どのくらいいるのだろうか」
という言葉も、
重く受け止めておかなければいけないなぁって思います



要はやっぱり、ひとりひとりの課題なんやね。

そして

人間って複雑なものだ
だから
おもしろい!!



★追記★

先程内田樹さんのblogを読んでいたら(わたしったらまぁ掃除もせずに!( ´艸`))
こんな部分がありました

「わが国のエリート層を形成する受験秀才たちはあらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する仕事には長けているが、正解が示されていない問いの前で「臨機応変に、自己責任で判断する」訓練は受けていない。むしろ誤答を病的に恐れるあまり「想定外の事態」に遭遇すると、「何もしないでフリーズする」方を選ぶ。彼にとって「回答保留」は「誤答」よりましなのだ」


それで、つい、本書「子どもと悪」の中の、こんなくだりを思い出した次第。

P168〜169です。こっちは創造性についてだけどね。
まさに、Schools kill creativity...
(でも、学校だけじゃないわね。学校がそうってことは、社会がそうってことで、私たち一人一人がそうってことだ…)

「現在の学校教育において『できるだけ早く正解を見出すこと』を善として、子どもが鍛えられれば鍛えられるほど、子どもは新しい発想への可能性をつぶすことを教えられているようなものである。
本当に創造的なことが生じてくるときは、そもそもどれが正解かなどということではなく、
問題そのものを探し出すことから始めねばならない
のである」



posted by しろくま at 13:14| Comment(0) | こんなん読みました^^
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