
先日、
まめひよさんがご紹介くださった元小学校教諭でいらした教育サポーター、仲島正教先生のホームページを読んでました。
特に、エッセイのところ…
ご自身が関わってこられた、小学校の、子どもたちの様子。
もう、泣けて泣けて。
この方もそうだし、東井義雄先生もそうだし、
金森俊朗先生もそうだし。
この方々の話す、子どもたちの姿はどうしてこんなに
心をうつんでしょうね?
…っていうか、この子どもたちだけが何か特別なわけじゃないんだから
この方々の子ども達とのかかわりが、子どもたちの姿をすくいとる目が、素晴らしいんでしょうか
子どもたち一人一人への、尊敬…としか言えないような思いが、あるのが分かるからでしょうか
日本の、特に小学校の先生方は
欧米のような職能に特化した指導とは違った
全人的な…まるごとの…かかわりをしてくださってますよね
ありがたいことです
でもそれが
難しい方も、負担になる方も、たくさんいらっしゃるのだとは思います
(日本に限らず、それに日本でも昔の、社会が貧しかったころは、そういった関わりの先生が多くいらっしゃっただろうし、そんな先生の存在ももっと大きかったのだろうとは思いますが)
HPに書かれていたエッセイの中で特に
心に残ったところがありましたので
メモメモ…
このページの一節です
「自尊感情を、単純に『自分が好き』としてとらえ、『今の自分で十分だ』『何でも好き勝手にできる自分が好き』『今のだらだらした自分が好き』と勘違いしていることがあります。
これは自尊感情ではありません。
本当の意味での自尊感情が育つとは『存在価値のある自分』であり『未来を見つめる自分』なのです。
『今よりよくなりたい』『明日はこんなことをしたい』『役に立ちたい』。
自尊感情とは、未来を見つめ希望に胸ふくらむ原動力なのです。自尊感情が育っている子は、けっしていじめなんかしないのです」
当然のことだけど忘れがちなこと。
これだけじゃあんまりピンときませんけど
↑でお書きになっている中に、体育の授業を通して変わる子どもの姿があります
「自分は役に立てる」という体験が、自分の存在価値を実感させてくれるんですね
よかったらご覧ください
今日「致知」という雑誌を眺めておりましたら
(この雑誌自体は、すてきな記事も載っているけど、たまにびっくりするようなものもあって、うちのオットは「超右」と申しておりましたが…極右とはまたちょっと違う気も…( ´艸`)で、このごろは読んだり読まなかったりです)
僧侶で作家でいらっしゃる玄侑宗久さんが、対談の中でこんなことをおっしゃってました
「私が気になるのは、今は国会議員も官僚もそっくりだということです。
皆塾通いをずっとやっていた超エリートで、就職したら即コンピューターの前に座っていた、という人ばかりなんですね。
その点、地元の市町村長は違います。…」
玄侑さん福島の方なのだそうです。今も福島在住。
東日本大震災の復興会議の委員でいらしたそうですが
「阪神淡路・大震災の復興会議は十年続きましたから、今回もそのくらい続くと考えていた」
そうです(それが昨年11月に解散が決定)
(福島の市長村長はまだ受験エリートや官僚出身ではないんですね)
頭に知識のあることと、体全体で肚で「分かっている」ことの違いがここにも。
(あと「覚悟」とか「心の強さ」とかも?どちらも、机上で習うものではない)
【日々雑感の最新記事】
今はしなければならないカリキュラムが多すぎて何もかもが細切れになってしまっているのかも。中学生の技術は1時間のみで、息子は「何もできん!」と怒ってます。やっぱり美術、技術は2時間続きですべきだと思います。総合の時間は「いじめはよくない」や「部落差別」「戦争」などについてをだらだらとやってるそうで、あれをなくして美術や技術にしてほしいそうです。わたしも同感です。
へーーー技術も1時間!?
用意して片づけしてたら終わってしまいそう…
「道徳の知識を教える」のと「道徳心を育てる」って違うものだよね。。
でも…
決まったカリキュラムがある中で、でも自分で判断して、大事なものに時間をかける、っていうのは、
すごい熱意があるわけでも、すごい勉強しているわけでもないようなフツーの先生には、荷が重そうな気がするね〜…