2019年05月11日

judgeと「観察」…「どんなかんじかなあ」


どんなかんじかなあ --- 中山千夏/文 和田誠/絵 自由国民社 2005
先日読み聞かせ仲間がこれを読んでくれました

実際にページをめくっていただければわかりますが
主人公の男の子が障害を持っている友だちのその「障害」について想像を膨らませたり感じたことを言ったりして話が進んでいくので
聞いていると大人は概ねだんだんjudgeしはじめます
この主人公に心理的距離を持ち始めます

まあ最後にいわゆるどんでん返しがあるのですけど…

それはよくわかります。

いっぽうで
わたしは初めて読んだわけではなかったからか、
(設定や最後のどんでん返しなども覚えていなかったけれど〜)
なんというか平静にというかわりに落ちついてというか
絵をみながら、
この子(主人公)の頭の位置が低いな。お友達といっても大きい子なのかな?
なーんてふんわりと想像しながら聞いていました

そのあとみんなの意見を聴いていて、そして家に帰ってから、わたしがはっと気がついたのは


この話を聞きながら無意識にこの主人公に反感を持ってしまうとしたらそれは
judge
ですよね
頭の中で、常識で、あるいは価値観で
こうしてはいけない、ああするべきだ云々と考え断罪するものです
(そしてjudgeはだいたいにおいて独りよがりで正確ではなくて反発を生んだり諍いやのもとになる)

一方で
judgeなしに、表現されたものをみてただ認識しているのは観察です


観察があるとjudgeが抑えられるのか
judgeがないと観察ができるのか
よくわかりませんが

connection practiceでそういえば!
何度も何度も練習するのがこの「観察」です
なーんか久しぶりに思いだしたな〜!

結構難しいのだ。これが。知らず知らずのうちにjudgeがはいっちゃう。
そして感情がかきたてられる。


judgeなしに観察する。
これができると素敵です


judgeしてもろくなことないからねぇ。
ごく日常の中でも。

子どもは大人よりもずっとjudgeが少ないわねぇ。

この絵本はどういう視線で見るかで評価が大きく変わってくる本だよね

子どもと大人の、絵本にふれるときの違いもこうやってみるとまたよくわかる気もするし
やっぱり大人はそんな子どもの在り方に学ぶ必要があるとどうしても思うし



それは
inner peaceのためにも世界の平和のためにも。


posted by しろくま at 14:00| Comment(0) | 日々雑感
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