2015年07月21日

「日本人の身体」


日本人の身体 --- 安田登/著 ちくま新書 2014

読むには読んでたいそう感銘を受けたけれども1週間2週間日が経ってしまうと
なんだかもうすっかり忘れていて
もう一度新鮮な気持ちで最初から最後まで(ぱらぱらと)読み返しました

この方はこの方自身たいそうおもしろそうです
能の「ワキ」の舞手(能楽師)で
ロルフィングのプラクティショナー(ロルファー)で
だから動的な体の専門家であり

それで漢和辞典の執筆もされていたことがあったとかで
甲骨文字やら
あと
ヘブライ語やら古代シュメール語やら…にもマニアックな造詣をお持ちのようで


おもしろい!!


えーとね
表紙にもありますけれども

「古い日本語の『からだ』というのは死体という意味でした。
生きている身体は『み(身)』と呼ばれ、それは心と魂と一体のものでした。
やがて、生きている身体が『からだ』と呼ばれるようになったことで、からだは自分自身から離れて対象化されるようになります。
そうすると、自分自身との一体感が薄れるので、専門家である他人の手に委ねても平気なようになるのです」


身体をものとして扱うようになる、「身体の客体化」ですね

「からだを鍛える」なんていう概念もこの客体化が起こってこそのことのようです

ほほー

それから
日本人の、日本家屋の、日本文化の 心のありようの
「境界」の薄さ、あいまいさについて。

「共話」というのも日本的会話の特徴なんだそうです
一つのセンテンス、一つの意志を順番に話しながら作っていく
「『一つの発話を必ずしもひとりの話し手が完結させるのでなく、話し手と聞き手の二人で作っていくという考え方に基づいた』会話」

なんかこれ
あるある って感じしませんか。無意識の探り合い的なことがあったりね。
(でもそこには、和を保ちたいという意思が働いている)

この境界意識の薄さは
「『見て見ぬふり』の文化なのです。
それは、相手の見られたくない部分は、実は自分の一部でもあるということを知っているからです。
相手が知られたくないことは、実はは自分も持っていることでもある」


こういう感覚ってでも、ずいぶん薄くなりましたよね
相手の不調法を指摘するような。そんなことが(TVなんか見てても)多くなってるのかなぁって
気がします

この方が
東西の古い「ことば」から
身体感覚を読み取ろうとしているのがとても面白いです
(古い言葉にはその民族の身体感覚が鮮明に表れているようです)
今は徐々に失われつつあるものだから余計に


「『古事記』や『日本書紀』によれば、芸能の始原は神懸りです」

これはいまでもよくわかります
日本の俳優さんの「上手い」人は憑依型です
アメリカやイギリスで名優と言われる方とは違います

でもさ。

本書によると(能の例などを出しつつ)
「若いよりも『老い』のほうがいい。
これは日本語の語源をみてもいえることです」


って、世阿弥の「まことの花」(と、「時分の花」って昔習ったね^^)の話など
老いることの価値を知っていたらしい日本で、でも同時に
「女房と畳は新しいほうが…」っていう表現があるのはなぜ??
そんなに起源の古い言い回しではないってこと?

以上
細切れに↑引用いたしましたが
読後、大らかな気持ちになります
時間感覚が大きくなるというか
自分という小さいものにとらわれる気持ちが薄らぐというか

最後にひきこもりの人たちと山を歩いた
「そうしているうちに彼らの視点は『歩く』という自分自身から、
自然や自然の中の自分へと変わる。
そうすると疲れなくなるのだ。自分の身体から世界に目を向けるだけで疲れが全然違うのだ」

っていうエピソードに表れている気がします

境界のあいまいさ、「個」意識の希薄さ、おおらかさ。
現代の生活を考えると失われているものだけど
それが残っているのが「能」の世界なんだそうです

能が見たくなるよね
そしてたまたまなんですけど
9月に、知人のお誘いで能へのいざない的な会を観に行くことになっています

すごく楽しみ!!







posted by しろくま at 15:36| Comment(0) | こんなん読みました^^
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