2024年10月17日

Be yourself no matter what they say



タイトルの、
Stingの歌からの連想のことを、さっき書いたんですけども

もう一つあった。
この頃気づいたこと。

**その前に。(このblog書いた次の日ですが、ちょっと付け足し)

自分自身って何?どんなの?っていうのはじつは
結構難しいっていうか思いのほか大きなテーマなんじゃないかと思うのよね

でも、考えてみたら
「健康って何」「自分の健康な状態ってどんな時」っていう命題が
実は健康(の状態)が失われたときにわかる・・・
っていうのは実感なのであります

そうじゃない?

なので、自分で少しずつ分かっていく過程があるんだろうなぁ
と考えたうえで
↓最近ふと思ったことをひとつお話ししたいと思います。


この夏の初めに知り合った方と
何度かお話をしているうちに
おもしろいなーって思うことがありまして

その人のことを考えたりしているうちに


「自分で何もかもできようとしない」
(日本語ちょっと変ですけど。でもこういうことなのよ)
なんでも(自分が)できなくていい
んやんなぁーって
ふと気がついたんですよね

いやわたしもそういうところよくよくあるからさ
その人と知り合ったんかもしれないなぁって


自分で無意識に「これはできなくちゃいけない」って
考えてしまうのは
自分を追い込んでしまうね


そういうのやめていくわ。

(できるわたしも、だけど)
できないわたしも
わたしとして受け止めていくのよ

Be myself


ってなかなか奥が深い。やりがいがあるね
posted by しろくま at 22:07| Comment(0) | 日々雑感

「山窩物語」

IMG_2024-10-17-165857.jpeg
山窩物語〜日本のジプシーをさぐる〜 --- 三角寛/著 読売新聞社 1966

古い本だわー。図書館で借りました。

サンカと呼ばれるようになった(著者も書かれていますが、山はともかく、窩 という字を当てるのは実情に則さないそうです)人たちの途方もない魅力はともかくとして

特におもしろかったのはお産の習慣の記述です

そういえば、ってすっかり忘れてたけどわたし
自分が出産した前後は
結構なお産マニアでありました
(マニアっていうかさぁ、興味があるものはひたすら研究したいのよね)
わたし自身はそうして病院でなく助産所で出産したのでありますが
この辺りのあれこれはむかーしおさかなやにも書いたことがあったような(なかったような)

ともあれ
妊婦の衛生
産湯使わぬ分娩(みふたつ)
というのがその章です

著者も書いていますが
「瀬降の女は出産について(中略)一般社会のように大騒ぎはしない。
予定日が来ても、平然として働いている。
ユサバリを畳んで、移動中にも産気づくことがある。
そんな時でも、肩の天幕を下ろして、その場で産む。
かつて、異常出産の実例がない。
ということは、それが本来の人間の常態である。
にもかかわらず一般社会に産婦人科が繁盛して、異状産の増加しつつある現在としては、実に驚くべき常態の事実と言わねばならない。
したがって、医学の未開の分野が、ここに秘されているのである。
謎ではない」


これだけ体を動かして、自然の中で生きるのは、今の日本ではめまいがするくらい難しいことだろうけどなぁ
でも
研究すれば取り入れられることがもしかしたら、あるんじゃないかなぁ

そしてお産だけではなく。

posted by しろくま at 18:37| Comment(0) | こんなん読みました^^

「タカツカヒカルの右脳開発セミナー」

IMG_2024-10-13-233528.jpeg
タカツカヒカルの右脳開発セミナー --- 高塚光/著 東急エージェンシー 1995

この方の本は3冊目なんだけど、これが一番おもしろかったなぁ

今は左脳社会に極振れてしてるので、これからは右脳を・・・

みたいな趣旨なんですけれども

例えばね。
「感覚と感情を退化させた現代人」っていう章に
こんな指摘があります

「テレビコマーシャルほど人間の感情を削っていく媒体はないと思っている」

「時間がくればそんな人間の感情にはお構いなしに、なんの脈絡もなくコマーシャルが割り込んでくる」

「みている人間は喜怒哀楽の感情や余韻の受け皿をなくし、切断されたその感情は未解決のままに取り残されてしまう。
そんなことが繰り返されているうちに、現実にさえも鈍感になって、現実味を伴わない映像のように心と現実がどんどん乖離していくのだ」


今の例えば若者たち(この本が書かれたのは平成7年ですが)
の虚無感みたいなものもテレビコマーシャルの影響だと

コマーシャル!
いや言われて見れば本当にそうだなぁ
ぶつぶつっと切られてしまうことになんと慣れっこになっていることか

そしてTVニュースでウクライナやガザの爆撃の様子を流しながら
ご飯食べたりしているお茶の間の異常さときたら


印象に残ったのは(また↑とは違うところなんだけど)

「いかに自分のことを信じられる自分をつくっていくか」
というくだりです

少し前から引用すると

「人間は、『人間の本質は何か』ということを見極めるために修行している。仏教に入ってお経を丸暗記して、毎日を読経三昧で明け暮れたり滝に打たれたりしたからといって人間の本質を知ることができるだろうか。
人間の本質を知るためには、自分自身の問題と直面してみなければ分からない。それでは次に自分自身と関わるときに、何を修行の目標にしていくかというと、それは
『いかに自分のことを信じられる自分をつくっていくか』ということなのだ。
これは傲慢になったり、エゴイストになれということではない。
『自分という存在は、いい意味でも悪い意味でもいろんな面を持っている。長所も短所もある』
(中略)
『自分のことを信じてくれる最高の人間というのは、自分なんだ』ということに気づくことが修行の一つであるのだ。そのことに気づくには、(中略)人間関係の中で行動してみなければ分からない」



話は飛びますが、先日車を運転していて
たまたまStingの"Englishman in NY"がかかっていて
コーラスのリフレインが

Be yourself, no matter what they say

何度も何度も聞こえてきて
いえ、もう若い頃から何百回も聞いてきたフレーズなのに

初めて、ハッと思ったんですよね
このリフレインが耳に残って
心の中に想いが入ってきたんですよね



自分って
自分を信じるって
自分はこういうもので大きくも小さくもなくってこれがわたし
それが素晴らしくて素敵だと思う
ってことで

そう聞くと一方で「等身大の自分」っていう言葉があるんですけど
なんか近い意味のように思われるけど
でも

等身「大」って
いや別に、大きいとか小さいとかっていうことじゃなくて
大きいのがよいとか小さいのがいいとかそういうことでもなくて
サイズじゃなくて


これがわたし

他の人が(あるいはむしろ自分の狭い自我が)なんと言おうと
これがわたし


っていうのがなんかストンと胸に落ちてきた気がします



そんなこんなちょうど巡り合わせのようなこの本なのでありました


posted by しろくま at 18:21| Comment(0) | こんなん読みました^^